出典:映画.com
こんにちは!
映画やドラマに大活躍の名優であり、バラエティに出れば気取らず気さくな姿を見せて周りの人たちを笑わせる。
そんな素敵な唐沢寿明さん。
ますますカッコよくなっていっていますね。
筆者は唐沢さんが大好きです!!
今回はそんな素敵な唐沢寿明さんの若いころの経験が凄まじいと噂を聞いたので調べてみました。
奥様である山口智子さんずっとラブラブで幸せそうなイメージしかない唐沢さんがどんな下積み時代を過ごしてきたのか、あの人気ドラマに抜擢された経緯などを詳しくご紹介していきます!
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目次
唐沢寿明さんのことを簡単にご紹介。
唐沢寿明さん プロフィール
別名義(旧芸名) 唐沢 潔
1963年6月3日
出身地 東京都
身長 175㎝
血液型 A型
職業 俳優
ジャンル テレビドラマ、映画、舞台
高校2年の時に高校中退。
東映アクションクラブ(当時16歳。最年少。)に所属し、その後ホリプロ、三生社(橋爪功の妻が社長)を経て、現所属事務所である研音に所属。
1995年女優の山口智子と結婚。
芸名の「寿明」は個人事務所所属時に社長が内緒で占い師に相談して付けたもの。
役者を意識し始めたのは小学校3年生の時。
テレビドラマの展開にいちいち一喜一憂して泣いていると、母親に「テレビの話しなんだから泣いているんじゃない!」と言われ、初めて「これはお芝居だったのか!」と気付く。
その時悪訳を演じていたのが橋爪功さんで、主役ではなかった橋爪功さんの演技に魅了される。
「主役じゃなくてもこんなに人の心を動かすことができるのか…」と感動した唐沢少年。
そこから「役柄なんて関係ない。演じられるだけでいい。」という感覚が芽生え、その思いが今日までの役者人生に大きく影響している。
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高校中退?!
東映アクションクラブ最年少?!
芸名を付けたのは占い師?!
こんなに短いご紹介の中にも「?!!」と思うことがたくさん!!
次はもっと詳しく唐沢さんのことを掘り下げていきます。
憧れはあの人?唐沢少年が成りきっていた人物とは?
中学生の頃、唐沢さんはあのブルースリーにドハマりします。
すっかりなりきって物まねをする毎日。
俳優への思いも募ります。
そんな中学1年になったある日、唐沢少年はアポなしで東映撮影所に出向きます。
守衛さんに「俳優になりたい!」という思いをぶつけるも、年齢を聞かれ「とにかく中学を卒業したらまた来なさい」と門前払いを受ける。
唐沢少年は夢を諦めきれず、少し経ったころに再びに同じ東映撮影所に訪問。(当然アポなし。)
前回とは違う守衛さんに再度「俳優になりたい!」と告げると、今回は奥の部屋に通され、東映の関係者とお話しすることができた。
ブルースリーに心酔していた唐沢青年は「お芝居もアクションもしたい!」と自分の夢を語り、「東映アクションクラブ」に所属することに。
当時最年少の16歳だった。
若かりし日の映像?!!出典:youyube
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唐沢青年は東映アクションクラブに所属し、いわゆるスーツアクターになります。
スーツアクターとは仮面ライダーや戦闘者のヒーローの“中の人”が主なお仕事。
ショッカーや、仮面ライダーの吹き替えをやっていた。
当時のことを唐沢さんご本人がこうおっしゃっています。
「仮面ライダーもやっていたけれどショッカーもかなりやったよ。あれはモジモジ君みたいな全身タイツ一枚のみの衣装なんだ。膝サポーターもサポーターパンツもラインが出ちゃうから着けられないんだよ。だから冬場は動くしかなくてね。(温まるために)」
高校中退。親から勘当?!自立は高校2年から。
小さい時からユーモアに溢れ、人を笑わせることが大好きだった唐沢さんは小学校の通知表に「落語家になりなさい。」と書かれているような少年だった。
でも家に帰ると両親はケンカばかり。
父親は怒ると母親に手をあげることもよくあったそうです。
そんな父親と衝突することも多々。
高校2年の時、唐沢青年は本格的に芝居の勉強をするために高校を中退します。
高校中退を巡って反対をしていた父親とますます衝突が多くなる。
そんなある日、何かで激高した父親が母親に手を上げそうになり、唐沢青年は母親をかばい父親に対して「出て行け!!」と叫ぶと、母親からなぜか「あんたが出ていきなさい!」と逆に怒られ、勘当されてしまいます。
何故…( ;∀;)
その後は叔母の家に居候をしながらオーディションを受けまくる日々を送ります。
既にご両親はお亡くなりになっているようですが、勘当されてしまっていたことで誰にも頼ることができなくて相当お辛い時期を過ごしたのかもしれません。
だかからこそ下積み時代を乗り切れたのかもしれませんが…。
初めてオーディションに合格したのが8年後?!
唐沢さんが初めてオーディションに合格したのは活動を始めてからなんと8年後!!
それまではエキストラやスーツアクターとして活動を続けていて、スタントのような仕事も数多くこなしていたようです。
地上30メートルから飛び降りて3万円。全身燃える役で3万円。そんな仕事をやってたんだよ。
とあるインタビューではそんな風答えている記事もありました。
そのため骨折や捻挫は日常茶飯事。
保険にも入れない日々だったそう。
当時は先輩の家で寝泊まりしたり、1畳のアパートにも住んでいたそうです。
1畳のアパート…
どうやって生活をしていたのでしょうか…?
泣けてくる…。
そんな唐沢さんに大転機がやっと訪れます!!
顔を出してセリフのある役のオーディションに合格し、舞台出演を果たしたのが活動をし始めてから8年後、24歳の時です。
その舞台出演を機に芸能事務所から声がかかり、ドラマの仕事が多くなっていきます。
そして大きなチャンスを掴んだのが1988年に放送のNHKの朝ドラ「純ちゃんへの応援歌」出演です。
ここでのちに奥様になる山口智子さんと出会います。
やった!!
やっと来た!!
書いている私も嬉しい!!!
ドラマ『愛という名のもとに』で大ブレイク!抜擢のきっかけは笑っていいとも?!
唐沢さんが大ブレイクしたのは1992年放送のドラマ「愛という名のもとに」の大抜擢がきかっけでしょう。
当時まださほど有名ではなかった唐沢さんがこのドラマに抜擢されたのは笑っていいとも?!のテレフォンショッキング出演がきっかけだったとか?!
当時、大事な舞台に出演していた唐沢さんはなぜかテレフォンショッキングに出演することになってしまい、大事な舞台の稽古の合間にTシャツにジャージという姿で出演。
「やる気ないの?」と突っ込むタモリさんにどれだけ今の舞台が大事かと熱弁をふるう唐沢さん。
そんな唐沢さんの姿がプロデューサーの目に留まります!!
そして大抜擢されるんですね。
少年の頃「どんな役柄でも演じられることが素晴らしいんだ!」という思いそのままに貫いているのがよくわかりますね。
必ず観てくれている人はいるんですね。
下積み時代が長くても諦めなかった唐沢さん。
こんなこともおっしゃっています。
「自分なりに誰かが自分を見てくれてると思って信じて疑わなかったな。純粋だった。」
くぅぅぅぅぅ~…
泣けます…
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まとめ
高校1年生のころから活動はじめ、高校中退、親からの勘当…。
全身を酷使しながらも諦めずに夢に挑み続ける事8年以上。
1畳のアパートに住んだり、保険にも入れない状態でケガをしまくっても諦めなかった唐沢寿明さん。
いつもテレビで見せるあの明るい笑顔の下に、そんな過去があるなんて微塵も感じさせないところがほんとにすごい!と改めて感じました。
妻である山口智子さんがいつまでもぞっこん(この表現は古いでしょうか?!)なのも頷けます。
今回唐沢さんの過去をより知った筆者はますます唐沢さんが大好きになりました。
今後ももっと応援していきたいと思います。
唐沢さん、好きだーーー!!